98年9月4日号

横澤晶子「トイレから見る現代社会−うちのトイレはぼっとんだ−」


 うちのトイレはぼっとんだ。それもただのぼっとんではない。便器の下に一輪車が備えつけてあり、便器の中に投入されるものはずべてその一輪車でうける。尿、紙、大便、そして大便の消臭のために振り掛けるおがこ。尿だけは抜けていく仕組みにしてある。そして一輪車が山盛りになったら一輪車ごと、えっさえっさと運んで堆肥場の掘った穴に山盛りをドサッと入れて、その上に土をかける。数ヶ月で土の中のバクテリアにより分解されて土(堆肥)となる。その堆肥で育った野菜を人間が食べる。そして便を出す、というわけだ。
 
 井上ひさしの小説「吉里吉里人」に、二階にトイレがあり、その下の一階は牛小屋になっていて、トイレの便器に入ったものはそのままかいば桶に直行し、牛はそれを食べて乳を出す。その牛乳がめちゃうまい、というすごいトイレが出てきたが、うちのトイレもそれに勝るとも劣らぬシステムだ。ただ“一輪車でえっさえっさ”の部分が今ひとつ積極的になれなくて譲り合いの精神が働きがちだった。今年の春までは。
 
 去年の春、初めて畑の準備をするのに堆肥を使わなかった。元来ものぐさな人間なので、“何も手をかけずに野菜ができたら儲けもん”という気持ちがあったし、一旦埋めた“なに”を一度ほじくるのはできれば遠慮したい気持ちもあった。無肥料の畑は悲惨な結果に終わった。
 
 今年はもうちょっとましな収穫をと思い、畑に堆肥をばらまいて、マルチを敷いたところ、野菜の育ち具合が去年と同じ場所とは思えない程良い。堆肥の威力をまざまざと見せつけられた。それからは不思議と “一輪車でえっさえっさ”が苦痛ではないを通り越して“ちょっと好きかも知れない”になってしまった。
 
 それまでは循環型生活は地球にも人間にも良いと理屈で理解し、自分を納得させていたようなのだが、実際に自分もその循環の一部になってしまうと、うれしいとか、自然の恵みだとか、そんな表面的なものは通り越して、体中が充実感で満たされる。自分でもちょっと驚いている。
 
 体中の毛穴からあふれそうなくらい「生きている」という感覚がみなぎって、それと同時に自然の懐の中で「生かされている」という不思議な安心感にも包まれる。とても気持ちのいい状態だ。気持ちのいいことは、たぶん来年、再来年と続いて行くのだろうと思う。「自然との一体感」というのはこういう心情を言うのだろう。
 
 子どもの頃、近所の畑でほおかぶりをしたおばあさんが、天秤棒に肥え桶をぶら下げてエッチラオッチラと歩いているのを見て「よくやるなあ」と思っていた。サラリーマン家庭に育った私はスーパーで買ってきた食物を食べ、トイレで排泄し、ジャーと流したその後は人任せという生活をしていた。おばあさんのその時の心情を当時の私に想像できるわけがない。あのおばあさんも「一体感」を味わっていなのかあ、と今になって思う。
 
 太古の日本で、高い精神文化をもち「自然との一体感」を大切にしていた縄文人たちの時代は平和で、人と人が殺し合うこともなく(遺跡から武器は一つも出ていない)、又、海や森をダメにすることなく約一万年続いた。
 
 「一体感」を失った人間も肉体は 空気や水を必要とし、自然のバランスが生み出すある範囲内の環境(気温、湿度等)でしか生きられない。人は文明によって、それらを崩しつつもある。文明とはいったい何なのだろう。便利さ、速さ、お金、おいしい物をたくさん求め、とどまるところを知らない。全てを失ってしまったあとで刹那主義的な人間のエゴイズムのなれの果てでした、という事にならなければいいが、と思う。



 幼少時代を尾張旭市で過ごす。結婚後、夫と山暮らしを目指し、下山村に山林を購入。八八年から六年がかりでログハウスを建て、九四年に転居。その間に三人の子どもを産み育てる。現在、一一、九、六才。
 夫(唯史)は原木による家具づくりの「原木工房」を、自身は極小規模のパン屋を営む。
 東加茂郡下山村宇連野在住。



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