991001-5 やはぎ論壇「『意思疎通の回路』を見出す─保見団地問題に寄せて─」福永 文子

 この八月、訪問していたブラジル・サンパウロからの機内で、私はある英文雑誌の一枚の写真に釘付けになった。見慣れた「名鉄」の赤い文字の看板、空を見上げる南米系青年のアップ写真。「闘いの血脈」との題名で、保見団地をテーマに日本人と日系人の摩擦について報じた八月九日付「タイム」誌である。
 

 人口約一万一千人のうち、約三割にあたる三千人の外国人住民が居住する保見団地では、一部の外国人住民の生活マナーに関する問題が取り沙汰され、常に地域住民のみが負担を強いられてきた。これに対し長らく行政は無策だったが、今年、国際部を立ち上げ、八月には豊田市国際課施策推進会議を庁内で開くなど、ようやく重い腰を上げ始めている。
 

 保見団地問題、というよりは外国人との共生に関わる問題は様々な側面があり、一言で括ることはできない。ただその中でも一つの視点として重要なのは「日本人と外国人とのコミュニケーション回路をどう見出すか」だと私は考える。
 

 例えば住環境の改善には、個々の住民が地域社会ではルールを意識して、自らの個人生活をある程度自己規制することが求められる。誰でも本音では好き勝手にやりたいところだが、地域生活は自己規制しなければ、互いの生活が脅かされる。そこでルールやマナーが作られる。
 

 生活習慣やマナーは国や地域によってかなり異なる点が多い。そのことは、誰もが頭では理解している。
 

 だが、その「異なる生活習慣」が目の前に現れたとき、多くの日本人は感情的に納得できない。慣れていないのである。そして思わず「郷に入りては郷に従え」と主張してしまう。郷、つまりマジョリティたる受け入れ社会の「数の論理」にたよるのだ。
 

 だが、この言質は一方のマイノリティからすれば、ルールへの理解に結びつかず、単なる感情的な反発を招くだけだ。何故なら、この言い回しを発せられてしまえば、自分の文化・背景を捨てて同化を求められていると感じるからである。
 

 よく「外国人との共生」という言葉が使われるが、これは「郷に入りては」式の発想から脱却することから始まる。それには、個人単位で「友人」や「知り合い」となり、互いの良さを認め合う関係が築かれることが重要だ。そのような自然な人間関係では、日本、相手国の文化や習慣が自然に伝達・受容されるからだ。
 

 そこで、日本人と外国人が緩やかに出会い、個人的な関係を取り結べる「場」が地域に増えることが望まれる。今、保見団地では日本語教室などの複数のボランティア団体が活発に活動している。教室を訪れると日本人と外国人が和気あいあいと学び合う姿に出会うが、行政や団地の管理者たる住都公団もこのような地域活動にもっと支援を行うべきだ。
 

 もう一つ、コミュニケーション回路として役割を果たすべきは、外国人を雇用している企業や派遣先の企業である。そもそも労働力不足を補うものとして外国人労働者の恩恵を最も受けてきたのは産業界だ。七月に日本人と外国人青少年の騒動があった際、保見で「(外国人問題は)受け入れた日本企業の責任」などと発言する中学生の声を聞いたが、このような見方が地域で広がって損をするのは企業自身である。
 

 隣の岡崎市では九二年から岡崎地区外国人雇用管理推進協議会が発足し、日系人雇用に関する研修や南米事情講座等を多面的に行ってきた。外国人が地域で生活でき、安心して働けるための条件整備(例えば、日本語講座や生活マナー講座)は福利厚生として不可欠のはずだ。豊田地区でも早急に検討すべきであろう。
 

 なお、先に触れた外国人青少年に関する問題の根幹には、就学問題が横たわっている。また外国人住民の医療・保険問題もある他、近い将来には長期定住者の高齢化への対応も迫られるだろう。行政、さらには関係機関は今、中長期的な展望に立った、外国人住民も含めた街づくりを求められていることは間違いない。


 豊田市美里在住。フリーライター。大学教育や高校教育をテーマとした執筆の他、市国際交流協会機関誌「サンフラワー」にて日本人と外国人の在り方に関し執筆。
 
 

 


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